織田がこれまでに楽曲を提供したアーティストは100名以上。手がけた楽曲はおよそ600曲。
プロデュースする時には、全部責任を持つが、曲だけのときは、歌い手には会わずにイメージをふくらます。
そんな中、イメージ以上にふくらんでうれしかったのが、酒井法子の「碧いうさぎ」。
大ヒットして、酒井は9年目で紅白初出演。
さらに平成7年、織田が発掘して育てた相川七瀬がデビュー曲『夢見る少女じゃいられない』で大ヒットした。
13歳からの2年間、父親の仕事の都合によりロンドンで過ごし、デビット・ボウイやT・REXなど20世紀を代表するロックスターの洗礼を受ける。
中学3年の終わりに高知の学校へ転校。当時帰国子女は大変珍しく、学校で孤立した存在となり、追い詰められて心を閉ざし、死をもちらついた。
そんな織田を救ったのはエルトン・ジョンの曲だった。
高校時代からバンドを始め、大学を中退してプロとして活動を始めたが、
全く売れない。個人事務所を開いたため、お金がない!
そのため、音楽関係の仕事なら何でも引き受けていた。
そんな時、まだデビューしたばかりのTUBEの作曲の依頼がきた。
夏っぽく、海っぽい歌を依頼されたが、織田は、そんな健全なイメージとはかけ離れた男。屈折した10代。海に行くこともなく、青春を謳歌している連中が嫌いでもあり、うらやましくもあった。
当時、「夢をみれば叶うさ」みたいな曲が多かった。ウソ言え!と思い、もっと違った曲が作りたかった。
海も青春も縁遠い織田のコンプレックスから生まれた曲、
それが大ヒット曲『シーズン・イン・ザ・サン』。
夏のビーチに行ったこともない男が、いじけながら作った。
90年代、ついに織田自身の曲でヒット曲が生まれる。
それが『いつまでも変わらぬ愛を』である。
表面上は恋愛の歌だが、実は、亡き兄へ向けての歌である。
兄は勉強も良くできて、織田にとっては憧れの存在だったが、学校へ行かれなくなり、強い薬の副作用で心臓発作で亡くなった。
その後、旅行で行ったスペインで強盗に襲われ、首を締められて声帯を痛めた。
医者に歌うことはもうできないと言われて、歌うことの大切さに気づいた。現在は、徐々に回復、今また精力的に活動を再開している。 (Dのゲキジョーより)